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従 来 の E U の 危 機


 欧州憲法条約の批准否決EU次期財政計画協議の不成立 に基づき、現在、EUは新たな危機に直面しているが(参照)、これまでも困難な状況に陥ってきた。その主な例は以下の通りである。

困難を乗り越えようとする人


リストマーク フランスのEU理事会出席拒否

 当初のEC条約によれば、1966年以降(移行期間の第3段階)、EU理事会は、農業政策に関する案件を
特定多数決 にて可決することになっていた。しかし、全会一致制度から多数決制度に変更されることになれば、自国の反対にもかかわらず、議案が可決されてしまうことに抵抗し、フランスは、1965年7月より半年間、EU理事会への出席を拒否した。これによって、理事会の議事運営は麻痺するようになったが、1966年1月、当時の加盟6ヶ国は、国益に特に重要な案件に関しては、従来どおり全会一致制度が適用されることに合意した(いわゆる「ルクセンブルクの妥協)。この議事手続は法的に拘束力を有さないと解されているが、1966年より約15年間援用された。


(参照) ルクセンブルクの妥協 @A



リストマーク イギリスの拠出金返還請求

 首相就任早々、イギリスの Margaret Thatcher 首相は、"I want my money back" と主張し、イギリスのEU(EC)拠出金の返還を要求した。これは、当時、まだ比較的貧しかったとされるイギリスの財政負担が重いのは不公正であること、また、EU(EC)全予算の70%以上が農業政策 につぎ込まれるのは不適切であり、自国はその恩恵に与っていないため、分担金の一部返還を求めたものである。同首相は、さらに、
ECの超国家主義に反対する立場も露にしている。この要求を踏まえ、1984年3月より、イギリスの財政負担は66%軽減されているが、その後のイギリスの経済発展やEU拡大に伴う予算拡大に照らし、その見直しが重要課題となっている(参照


(参照) イギリスの財政優遇策



リストマーク デンマークのマーストリヒト条約批准見送り

 1992年に実施された国民投票で、デンマーク国民は、マーストリヒト条約 の批准否決を決定し、多方面に大きな衝撃を与えた。しかし、その後、デンマークには、@ 共通防衛政策、A 経済・通貨同盟、B 移民政策 や C 庇護政策への参加を棄権する権利を保障する妥協案が成立し、1993年に再び実施された国民投票では批准が可決された。



リストマーク Santer 欧州委員会の辞職

 1999年3月、Santer 欧州委員会は、欧州議会による一連の批判を受け辞任を表明した。


(参照) サンテール欧州委員会の辞任と欧州議会制度




リストマーク BSE(狂牛病)に基づく輸入禁止

 イギリスで BSE(狂牛病)問題が発生したことを踏まえ、1996年、ECは同国からの牛肉の輸入禁止を決定したが、当時の John Mojor 英首相はこれに反発し、すべてのEUの決定を阻止すると述べた。しかし、翌年の下院選挙で保守党は敗北し、新たに政権の座に就いた Blair 首相はECの輸入禁止措置に理解を示したため、事態は収拾した。なお、輸入禁止措置は、1998年に廃止されている。



リストマーク オーストリアに対する制裁

 2000年2月、Jörg Haider (ヨーク・ハイダー)氏が率いる極右政党 FPÖ (オーストリア自由党)が政権に参加したことを理由として、EU加盟国は、オーストリアに対し制裁(7ヶ月にわたる外交断絶)を講じた。


(参照) サンテール欧州委員会の辞任と欧州議会制度



リストマーク アイルランドによるニース条約批准見送り

 2001年6月の国民投票で、アイルランド国民は、ニース条約 の批准を否決し、同条約の発効を遅らせたが、妥協案として、外交政策 について再協議する権限がアイルランドには保障されるようになった。これを踏まえ、2002年10月に改めて実施された国民投票では、批准賛成派が過半数に達した。




リストマーク 欧州憲法条約の制定

 欧州憲法条約の制定にあたっては、とりわけ、EU理事会の議決における各国の持票数をめぐって見解が対立し、2003年12月の政府間協議でも合意は成立しなかった(参照)。その主たる要因として、スペインとポーランドが自国の持票数の削減に強く抵抗していたことが挙げられるが、その後、両国では政権交代が実現し、新政府の譲歩に基づき、憲法条約草案は、2004年6月に採択されている(参照)。




リストマーク Barroso 欧州委員会の就任延期

 2004年5月の 東方拡大 を踏まえた新しい体制による欧州委員会は、同年11月1日に発足する予定であったが、一部の委員候補の就任が欧州委員会によって批判されたことを受け(参照)、新委員会の発足は延期された(参照)。
新しい人選を経て(参照)、Barroso 委員会は、約20日遅れで発足したが(参照)、それまでの間は Prodi 委員会が職務を継続した(参照)。


(参照) Barroso 欧州委員会の就任計画




(参照) 深刻な危機に直面したEU




(2005年8月14日 記)