Brexit   イギリスのEU脱退問題
EU加盟の意義とEU懐疑論

1.EU加盟の意義

 1952年、西欧6ヶ国が欧州石炭・鉄鋼共同体を設立することでEU統合は始まった(参照)。2016年6月現在、加盟国数は約8倍に増加しているが(詳細には28ヶ国)、この「ヨーロッパの家」に属する最大の意義は「経済」である。つまり、EUとは商品、人、サービス、資本の移動の自由が保障された域内市場であり、単一通貨ユーロを持つ経済・通貨同盟でもある。日本や米国といった第3国との貿易について取り決めるのもEUであり(なお、実務では個々の加盟国が第3国と独自に交渉を行う例も少なくないが、EUの通商政策に反してはならない)、農産物の生産・品質管理を行うのもEUである。数10年前のように「経済的要塞」として批判されることはなくなったが、経済統合はさらに進化・深化しており、EUの法や政策が全く関与しない経済分野はないと言っても過言ではない。

 なお、イギリスは欧州石炭・鉄鋼共同体や欧州経済共同体の原加盟国になることを一旦、断るものの、比較的迅速に見解を改めたのは経済的な理由に基づいている。つまり、同国が加盟申請を行った1960年代初頭、ドイツは奇跡的な経済復興を果たすのとは対照的に、イギリスはヨーロッパで最も貧しい国の一つに成り下がっていた。

 ギリシャ、スペイン、ポルトガルの加盟(EUの南方拡大)に際しては、この経済的側面の他に、3国の民主化を促すといった意義も込められていた。これは、東西冷戦の終結から約15年が経過した2004年5月、旧東側諸国がEUに加盟した際により顕著に現れた(EUの東方拡大)。

 その一方で、不倶戴天の関係にあった独仏の和解を達成することや(参照)、米ソ両大国の影響力が一段と増すなかで「没落するヨーロッパ」の国際的プレゼンスを高めるという目的も、欧州統合の初期の段階では存在した。

 まだ加盟を実現していない旧東側諸国にとって、EU加盟とはヨーロッパに属することとも言える。つまり、「EU」と「ヨーロッパ」は同義で用いられている。これに対し、スイス、ノルウェー、アイスランドは、あえてEUに加盟しない道を選択しているが、EUと個別に協定を締結し、EU統合に参加している。それゆえ、仮にイギリスがEUから脱退することになったとしても、EU統合に参加し続ける道は残されている。



2.EU統合懐疑論

2.1. 総論

 その一方で、EU統合懐疑論も根強く主張されている。特に、前述した2004年5月のEU東方拡大、換言するならば、旧社会主義国の受け入れは従来の加盟国にとって大きな負担となっただけではなく、加盟国間の結束を損なわせる要因にもなった。また、拡大し続けるEUに市民は反発するようになったが、この民意は、翌年、欧州憲法条約の発効を阻止するという形で現れた。国民投票を実施し、なおかつ、憲法条約批准に反対する立場が過半数になったのはフランスオランダの2国のみであったが、ほぼすべて加盟国で欧州統合のあり方が問われることになった。

 さらに、2010年5月以降に深刻化したユーロ危機、2015年8月から現在まで存在する移民危機はEU懐疑論を増幅させている。  

 なお、EU統合は加盟国政府が主導し行われている。この上からの統合、また、EUの官僚主義に対する市民の反発も無視できない。つまり、半数を上回る市民はEU統合を「無駄遣い」として捉えている。また、国際化やキャピタリズムの弊害はEU統合の「悪」として捉えられるようにもなっている。

 1993年11月に発効したマーストリヒト条約に基づき、「EU市民」という概念が導入されたが、自らを「EU市民」として、または、より一般的に使用されている「ヨーロッパ人」として捉える者は決して多くない。これはEUに対する関心の低さの表れでもあるが、逆に、EU統合の問題点は大きく報道されるため、注目されることになる。従来の国内法ないし自国の伝統を大きく変更するEU法が制定されるときも同様である。これらはEUのイメージを損ねることなる。

 このようにEU統合に反対する見解は様々な理由に基づいているが、国内政治に対する不満が大きな要因になっていることも見過ごしてはならない。つまり、本質的にEUには関係しない事柄がEUに不利に作用しているのである。



2.2.各論 ― イギリスにおけるEU統合懐疑論

 イギリスにおける状況も基本的に同じである。とりわけ、2004年5月の東方拡大後、イギリスには大量の労働者が流入し、同国の労働市場や社会保障制度に大きな影響を及ぼした。なお、この人の流れは予想されていたため、これを規制する例外が設けられたが、ドイツやオーストリアとは異なり、イギリスは例外措置を利用しなかった(参照)。つまり、イギリス政府の対応に問題がなかったわけではない。

 イギリスに固有の特殊要因として、当初から同国は欧州統合に距離を置いている点を指摘しうる。これは地理的に離れていることを指しているわけではなく、①最初の欧州共同体が設立された1950年代、同国は自らを世界大国として捉えており、主権の委譲を伴う欧州統合への参加は大国としての自国の立場にふさわしくないと考えていたことや、②ヨーロッパ諸国との関係よりも、米国や英連邦諸国との関係を重視していたことを指す。それゆえ、戦後の欧州統合のきっかけを作ったのは元イギリス首相ウィンストン・チャーチルであったが、イギリスはそれに参加する意思を持ち合わせていなかった。

 欧州石炭・鉄鋼共同体の設立に成功した6ヶ国は、さらなる共同体、詳細には、欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体の設立を検討するようになった。これに対し、イギリスはより多くの国が参加する自由貿易地域の創設を提唱したが、フランスに反対されたため、イギリスは諸共同体に加盟していない諸国とともに、EFTAを設立した(1960年)。しかし、諸共同体の成功、ヨーロッパ大陸諸国との経済関係の発展、また、自国の経済状態の悪化(他方、ドイツは敗戦を克服し、奇跡的な経済復興(Wirtschaftswunder)を実現していた)や国際舞台における地位の低下を受け、イギリスは、その翌年である1961年にはEFTAを脱退し、EC加盟を希望するようになるが、3度にわたり(1963年と1967年)、フランスから肘鉄砲を食らった。つまり、米国や英連邦諸国との関係を重視するイギリスは、外からは破壊できない欧州共同体を内から壊す目的で加盟しようとしていると考えたシャルル・ド・ゴール仏大統領は、イギリスの加盟申請を繰り返し退けた。同国の加盟が実現したのは、ド・ゴール大統領が政界を引退した後の1973年であるが、ヨーロッパに属さない英連邦諸国は当然、加盟できなかった。

 なお、政府主導で行われたEC加盟はイギリス国民によって冷ややかに受け止められた。加盟より数ヶ月後に実施された世論調査で、加盟を支持した国民は31%に過ぎなかったのに対し、加盟を評価しない者は34%にも達した。そのため、1974年の総選挙において、労働党のハロルド・ウィルソン(Harold Wilson)候補は、加盟交渉をやり直し、その後、EC残留の是非を問う国民投票を実施することを公約に掲げた。この選挙で労働党は第1党となり、首相に返り咲いたウィルソンは、実際に加盟交渉をやり直した上で、1975年4月に国民投票を実施したが、今度は残留を支持する者が反対を2倍近く上回った(67.2%対32.8%、投票率は64%)。

 この国民投票の実施に際しては、保守党のマーガレット・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher)も残留支持を訴えるキャンペーンを展開したが、1979年5月に首相に就任すると、態度を改めるようになった。それは、イギリスの財政は非常に逼迫していたが、ECのために不相応に多くの資金を拠出しているとの考えに基づいている。そして、サッチャーは1984年のEC加盟国首脳会議において“I want my money back”と発言し、一端は拠出した資金の払戻し(British rebate)に成功する(参照)。

 その後もイギリスは、EC(EU)の社会政策、人の移動の自由(シェンゲン協定)、ユーロの導入EU基本権憲章の適用などに関し、「特別扱い」を認めさせることに成功する。その一方で、欧州統合に消極的な立場を維持し、EUを牽引する意思はないことを表明している(参照)。 現職のデービッド・キャメロン(David Cameron)首相は、2015年5月の総選挙において、EU内における自国の立場を改善した上で、EU残留の是非を問う国民投票を2017年末までに実施することを公約に掲げていたが(参照)、これは前述したウィルソン元首相の方策と同じである。しかし、当時に比べ、脱退派の勢力が増しており、キャメロン首相は危険な賭けに出たと評される。これが危険なのは、EU残留が国益に、また、イギリス国民とその子孫の利益に叶うとキャメロン首相も考えているからである。また、国民投票の結果次第では、辞任に追い込まれるという点で、個人的な危険性もはらんでいる。なお、彼が支持する「EU残留」とは真の意味での「EU加盟」ではない。つまり、ユーロやシェンゲン協定には参加せず、EUの内政政策や社会政策には完全に参加せず、EU基本権憲章には拘束されず、EU財政負担は軽減された条件付きのEU加盟である。

 国民投票でEU残留が決まるにせよ、もともとイギリスはEUに完全に参加しているわけでない。また、EU残留はEUへの積極的参加を意味するわけでもない。



(参照)



    決議の評価



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