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トルコ国旗 トルコのヨーロッパへの道のり EUの旗


 トルコは領土の大部分がアジアにまたがっているだけではなく、伝統的にイスラム文化圏に属することから、ヨーロッパへの帰属性が問われることも少なくない。しかし、約600年以上続いたオスマントルコ帝国(1299〜1922年)が滅亡し、1923年にトルコ共和国が成立すると、初代大統領 Kemal Atatürk (ケマル・アタテュルク)の指導の下、新共和国は、西欧文明を積極的に取り入れ、諸制度の近代化を目指すようになる。


 トルコとECの結びつきは、EC(EEC)設立の初期の段階から開始されている。1958年1月1日、EECが発足すると(参照)、翌年の7月31日、アンカラ政府は、EECに連合協定の締結を申請した。もっとも、1960年、トルコ軍によるクーデターが生じたため、交渉の進展は遅れ、協定が締結されたのは、1963年9月のことであった。その中では、トルコが協定上の義務を適切に遵守する場合には、EC加盟について検討されるべきであると定められており、トルコのEC(EU)加盟の基盤となっている。確かに、これは、加盟の実現を約束するものではないが、トルコに大きな期待を抱かせる要因になった。なお、度重なるクーデターや(1971年、1980年)や、特に、1974年のキプロス占領 は、統合への道のりを険しくした。


 1987年4月14日、Turgut Özal 政権は、EC加盟を正式に申請したが、欧州委員会は、39ヶ月後の1989年12月になって、ようやく否定的な見解を示した。これは、ECは域内市場の完成に専念すべきであるとの理由に基づいていた(単一欧州議定書)。また、EC(EU)加盟には、全加盟国の同意が必要であるが、キプロス問題 を背景に、ギリシャが強く異議を述べていたことも、トルコの加盟を阻んだ。


 しかし、1989年に東西冷戦が終了し、中東欧諸国のEC(EU)加盟が「世紀の目標」に掲げられるようになると、トルコの要請も強まっていく。つまり、トルコの加盟を阻むのは差別であるとする批判や、EC(EU)は「キリスト教クラブ」であるとの風刺を盾に、アンカラ政府は譲歩を求めるようになる。1993年6月、EU加盟国首脳(欧州理事会)は、コペンハーゲンにおいて、加盟基準を定めるが(詳しくは こちら)、これは、トルコにも道を開いている。また、1996年1月、EC・トルコ間に関税同盟が発足し、両者の経済統合が強化された。そして、1997年12月、加盟国首脳は、トルコの加盟について検討すべきであるとし(ルクセンブルク欧州理事会)、1999年12月には、加盟候補国としての地位を与えることになった(ヘルシンキ欧州理事会)。


 加盟交渉は、トルコが諸制度を改革し、コペンハーゲン基準を充足する可能性があることを前提として開始されることになっており、2002年11月の選挙で大勝した Erdogan 首相のイニシアチブの下、トルコは一連の制度改革を敢行し、EU加盟という目標に向け邁進することになる。そして、2004年10月、欧州委員会は、加盟要件の充足に関し、まだまだ問題はあるものの、加盟交渉を開始すべきであるとの見解を示した(詳しくは こちら)。これを受け、欧州理事会は、同年12月、加盟交渉の開始を正式に決定し(詳しくは こちら)、2005年10月には、交渉が開始された(詳しくは こちら)。もっとも、自由の保障、民主主義、人権や基本的自由の保護、また、法の支配の諸原則に関し、重大な違反が継続する時、EUは加盟交渉を中断しうるとされている(詳しくは こちら)。




    リストマーク2006年11月の欧州委員会の報告書:トルコの制度改革の遅れを批判




 加盟交渉の開始が現実味を帯びるに連れ、EU内では懐疑論が台頭するようになったが(参照)、トルコに対し門戸を閉ざすことは、差別的ないし閉鎖的な態度を内外に示し、EUは「キリスト教クラブ」として批判されることになる。また、トルコの政情を不安定にしかねないため、EUの選択肢は「No」というカードを持ち合わせていなかった。しかし、トルコの地理的・人口的巨大さは、経済的弱さに対する懸念を踏まえ、1993年に定められたコペンハーゲン基準の他に、「EUの受け入れ能力」が加盟要件として加えられることになった(参照)。

 



(参照) 年表

トルコのEU加盟問題

EU加盟要件


加盟交渉


(2006年2月12日 記)