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練習問題

EU統合の発展


 テキストの8~9頁、11頁、19~20頁をしっかり読んだ上で、以下の問題に答えてください。

〔問題〕以下の文章には誤りが含まれています。その箇所を指摘し、正してください。なお、誤りは一つとは限りません。また、第1~2段落と第7段落には誤りが含まれていませんが、小テストの出題範囲ですので、熟読してください。

  地図

① 1939年9月、ヒトラー政権下のドイツが隣国ポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が勃発した。開戦当初、ドイツは優勢を保ち、翌年4月から5月にかけて、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギーに攻め入ると、ノルウェーを除くこれらの国の全土を占領した。また、イギリス軍やフランス・ベルギー連合軍をダンケルク(上の地図中の赤丸)に追い詰めることに成功したが、イギリス軍は奇跡的に撤退することができた。同年6月下旬、ドイツがパリを含むフランスの国土の5分の3を占領すると、フランスは降伏し、政府はイギリスに亡命した。そして、8月から9月にかけて、ドイツはイギリス本土に大規模な空爆を実施したが、チャーチル首相の下でイギリスが徹底抗戦したため、イギリス攻略は成功しなかった。なお、第2次世界大戦が始まる前より、エネルギー源の確保が諸国(当時の帝国主義国)の重要課題となっていたが、イギリス攻略に失敗したドイツは、東方に生存圏を求めるようになり、1941年6月には、独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連領内に侵攻した。当初は善戦し、モスクワ攻略が視野に入ったが、ソ連軍の反撃と「冬将軍」にあい、撤退を余儀なくされた。

② ドイツ軍は北アフリカにも兵を進めていたが、1942年11月、英米連合軍が北アフリカ上陸作戦を開始すると、ずるずると撤退し、1943年5月に降伏した。翌月、連合軍は北アフリカからシチリア島(上の地図参照)へ移動し、そこを足場にして、イタリア本土へ侵攻すると、ムッソリーニのファシスト政権は倒され、同年10月、イタリアは無条件降伏した。そして、連合国側へ寝返ると、イタリア領内でドイツ軍と戦った。イタリアの離脱後も、ドイツは東部戦線ではソ連と、また、西部戦線では米英連合軍との戦いを続けていたが、1943年2月、ソ連領内におけるスターリングラードの戦いでソ連軍に敗れると、追い詰められた。1944年6月、連合軍はノルマンディーに上陸すると(オーバーロード作戦)、そのまま東へ進軍し、パリを解放した。同時期、ソ連が東欧諸国を解放しながらドイツ領に入り、1945年5月、ベルリンを占領すると、ヒトラーは自害した。これを受け、ドイツは5月8日に無条件降伏した。

③ 戦後は米ソ2大国の影響力がますます強まり、ヨーロッパは両国の力関係によって東西に分断された。米国の影響下に置かれた西ヨーロッパでは、和平の実現と経済復興が重要な課題となったが、特に、長年にわたり幾度となく戦火を交えてきたドイツとフランスの和解が重要とされ、1946年9月、イギリスのチャーチル首相は両国の和解とアメリカ合衆国に類似する「ヨーロッパ合衆国」の創設を提唱した。実際に、諸国が一つの国になることはなかったが、アメリカの経済支援(マーシャルプラン)を効率的に受けるため、まとまるようになった。

④ 1950年5月、前述したチャーチルの要請に応える形で、石炭と鉄鋼の生産を共同で管理する国際組織の設立が提唱されるようになったが、これは当時のフランスのシューマン外相によって宣言されたため、シューマン宣言と呼ばれている。なお、石炭・鉄鋼業の共同管理が目的とされているのは、同産業をめぐり、独仏間では争いが生じていたためである。シューマン宣言に賛同した6ヶ国によって、欧州石炭・鉄鋼共同体を設立するための条約が翌年4月、パリで締結されると、1952年7月に発効し、同共同体が創設された。なお、創設したのは、紛争当事国であるドイツとフランス、チャーチルの祖国イギリス、イタリア、ベルギー、オランダの6ヶ国である。

⑤ 欧州石炭・鉄鋼共同体の設立に成功した6ヶ国は、活動分野を石炭と鉄鋼に限定せず、広く経済分野を管轄する共同体と、石炭に代わるエネルギー源として注目されるようになっていた原子力を対象にした共同体の設立について検討するようになった。そして、1957年3月、ローマで条約が締結されると、翌年の元旦、条約は発効し、新たに二つの欧州共同体、つまり、EECとEFTAが設立された。

⑥ 三つの共同体が設立された当初、それぞれは独自の機関を持っていたが、後に統合されると、三つの共同体の一体性が強まり、三つをまとめて、ECと呼ばれるようになった。なお、ここでのECとは、European Communities、つまり、複数形の共同体である。

⑦ 三つの共同体の内、最も活発に活動し、第2次世界大戦後の欧州統合を牽引したのはEECであるが、新規加盟を希望する国は、EECだけではなく、すべての共同体に同時に加盟しなければならなかった。特に、ギリシア、スペイン、ポルトガルでは、大戦後、独裁政権が存続していたが、それが終わり、国政が民主化した1980年代に加盟を果たした。このように、EC加盟には、新規加盟国に対する経済支援だけではなく、民主化の促進という意義も含まれていた。

⑧ 1989年、旧ソ連が解体し、冷戦が終結すると、「鉄のカーテン」で分断されていたヨーロッパの再統合が「21世紀の課題」として注目されるようになった。これは、2004年5月に、旧ソ連の支配下に置かれていた東欧諸国が、西側の国際機関である三つの共同体に加盟する形で実現されることになったが、それよりも9年あまり早い1995年元旦、中立国のオーストリア、フィンランド、スウェーデンが加盟した。なお、その当時、すでにEUが発足しており、三つの共同体はEUの「第1の柱」となっていた。また、EU発足と同時に、EECはECと名前が変わったが、これは、教育、健康、文化、外交・安全保障政策といった経済以外の分野でも管轄権が与えられるようになったためである。つまり、"European Economic Community" から "Economic" がとれ、"European Community" となったためである。なお、ここでのECとは、前述した複数形のECではなく、単数形のECである。

⑨ その後もEUは発展を続けたが、EU統合を一つの完成形に導き、また、市民により分かりやすくするため、2004年10月には「憲法条約」が制定された。しかし、翌年5~6月、フランスとオランダで実施された国民投票で同条約の批准が否決されため、発効の目処がたたなくなった。そのため、2007年3月、加盟国は新たに条約を制定した。この条約はポルトガルの首都リスボンで締結されたため、リスボン条約と呼ばれているが、全加盟国の批准を経て、2009年12月に発効した。現在のEUはこの条約に基づいているが、同条約によってECは廃止され、EUとなった。また、3本柱体制から2本柱体制に変わった。

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