チェコ共和国


 チェコはヨーロッパ中央部にある共和国である。四方をドイツ、ポーランド、スロバキア、オーストリアに囲まれ、海を持たない。


地図提供:Zen Tech

 1526年以降、チェコはオーストリア(ハプスブルク家)に支配されていたが、第1次世界大戦が終わった1918年、スロバキアと共にオーストリアから独立し、チェコスロバキア共和国となった。
  • (参考)2018年はチェコ建国100周年にあたり、我が国でも記念イベントが開催された(参照)。

 冷戦期は社会主義共和国となり、東側陣営に属した。1960年代には独自の社会主義路線を打ち出すようになったが(1968年のプラハの春)、旧ソ連に弾圧された。

 冷戦終結後は旧ソ連に背を向け、「ヨーロッパへの復帰」つまりEU加盟を目指すようになるが、スロバキアとの経済格差が顕著になった。そして、それを背景とする民族問題がスロバキアで深刻化したたため、1993年1月、連邦制を解消し、現在のように単一の国家となった。

旗

 首都はプラハで、人口1069万人(2019年12月現在)の1割強が「百塔の町」と呼ばれる、この都市で生活している。

 国民の約90%がチェコ人で、チェコ語を公用語とする。

 国土面積は我が国の約5分の1にあたる78,866平方キロメートルであり、西部のボヘミア地方(ドイツ名ベーメン)と東部のモラビア地方に分けられる。

チェコの地図
地図提供:Zen Tech

  (参考)外務省のサイト
 

歴史

1)大モラビア国の成立と崩壊
 現在、チェコの領土となっている地域には、紀元前4~前3世紀、ケルト人の一派であるポイイ人が移り住むようになった。1世紀頃には、北方よりゲルマン人のマルコマンニ族が移動してくるが、西スラブ人の一派のチェック人(チェコ人)が現れるのは5~6世紀のことである。
 なお、チェコは国土全体がドナウ川の北方に位置しており、当初、古代ローマの勢力図に入っていなかった。もっとも、ローマはこの地域の攻略を試みなかったわけではない。紀元前1世紀末頃、マルコマンニ族を率いていたマルボドゥウスは現チェコ領(ボヘミア、モラビア北部)に王国を興すと、エルベ川下流域まで勢力を広げていき、ローマの脅威となる。そのため、西暦6年、初代ローマ皇帝のアウグストゥスは軍隊を派遣した。ところが、その南方のローマ領内(イリュリア、ダルマツィア)で反乱が起きたため、マルボドゥウスと和議を結び、撤退した。また、9年、ローマ軍はトイトブルクの森で大敗を喫したこともあり(431頁参照)、ドナウ川やライン川を越えて進出することは断念するようになった。
 その後、ローマがチェコ地方に進出するのは2世紀後半である。162年にマルコマンニ戦争が勃発すると、モラビア南部はローマ軍の重要な拠点となるが、180年にマルクス・アウレリウス帝が病死すると戦火は収まり、ローマ人はモラビアから撤退した 。
 9世紀半ば、モラビア地方に最初の本格的なスラブ人国家である大モラビア国が成立した。そして、同世紀末にはキリスト教(ギリシア正教)が普及する。大モラビア国はスロバキア地方を吸収し、勢力を拡大したが、10世紀初頭、東方からマジャール人(ハンガリー人)に攻め入られ、滅ぼされた。その後、大モラビア国に支配されていたチェック人はボヘミア地方に王国を興した。こうしてボヘミア王国プシェミスル朝)が成立するが、スロバキア地方は、ハンガリーに組み込まれた。

2)ボヘミア王国(プシェミスル朝、ルクセンブルク朝)の台頭
 ボヘミア王国の成立後、大モラビア国の時代に広まったギリシア正教は衰退し、それに代わって、ローマ・カトリック教会が広まる。
  11世紀初頭、ボヘミア王国はポーランドに攻め入られ、占領されることになるが、神聖ローマ皇帝の力を借り領土を回復した。その後、ボヘミア王は神聖ローマ皇帝に臣従し、神聖ローマ帝国に加わった。なお、この帝国はドイツ人が建てた国々・都市の連合組織である。ドイツ人の国ではないものの、帝国に加盟したボヘミアは、ドイツ人の東方植民を積極的に受け入れながら発展していった。
 1246年、オーストリア公のフリードリヒ2世(バーベンベルク家)が男子の跡継ぎを残さず敗死すると、ボヘミア王のオタカル2世はフリードリヒ2世の姉と結婚し、1251年、オーストリアの公位を手に入れた。2年後、彼はボヘミアの王座にも就く。また、オーストリア南部だけではなく、ドイツ騎士団と協力して北海沿岸まで勢力を拡大し、名実ともにて神聖ローマ帝国内の最有力者にのし上がった。しかし、1278年、ハプスブルク家のルドルフ1世との戦いに敗れ、オーストリアを奪われた。
 14世紀初頭、プシェミスル家の男系が断絶すると、王位をめぐり内乱が起きるが、1310年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の長男ヨハンが亡き王の娘と結婚し、王位に就いた。ヨハンはルクセンブル家出身であり、1313年には父の跡を継ぎ、ルクセンブルク公にもなる。これにより、ボヘミアとルクセンブルクの間に同君連合が成立し、ボヘミアでもルクセンブルク朝が開かれた。
 ヨハンの権勢がさらに強まるのを阻止するため、彼が神聖ローマ皇帝に選ばれることはなかったが、1347年、彼の跡を継いでボヘミア王(ルクセンブルク公)になった長男のカルル(カール4世、522頁参照)は、1355年、神聖ローマ皇帝に選ばれた。彼によって帝都がプラハに遷されると、帝国におけるボヘミアの地位が高まり、王国は黄金期を迎える。 なお、若い頃、パリに留学した経歴を持つ彼は、1348年、首都に大学を設置した。プラハ大学はドイツ文化圏で最も長い歴史を誇る最高学府である。

3)フス戦争
 15世紀初頭、ボヘミアの首都プラハで神学教授を務めていたフスは聖職者の不道徳や教会の世俗化を批判し、ボヘミアで大きな支持を得る。彼はドイツ(神聖ローマ帝国)支配に対する民族運動でも指導的な役割を果たし、プラハ大学の学長に選出された。
 1414年、教会が彼を異端者とみなし処刑すると、ボヘミアでは教会に対する批判が沸き起こる。このような状況下、ボヘミア王が教会に歩み寄ると、王に対する批判も強まった。さらに、ドイツ(神聖ローマ帝国)支配に対する反発も強まったため、神聖ローマ皇帝のジキスムント(前出のカール4世の子)が「十字軍」を編成し、出兵すると、「フス戦争」(1419~1436年)が勃発した。ボヘミア側は農民も参加して皇帝と対戦したため、戦闘は膠着し、17年近く続くことになる。武力による鎮圧を断念した皇帝がフス派の信仰を認めると、戦火は収まるが、教会との対立は残った。それから約200年後の1618年、フス派が起こした反乱をきっかけとし、30年戦争が勃発する(後述参照)。

4) ハプスブルク体制
 1526年、ボヘミア王がオスマン帝国との戦争中に死亡すると、姻族関係にあったハプスブルク家が王位を相続し、ボヘミアを治めるようになった。
 1618年、ボヘミアの新教徒が再び反乱を起こすと、30年戦争(1618~1648年)に発展した。彼らはワイセルベルクの戦いで大敗を喫し、ハプスルブルク家の支配(宗教改革の弾圧、政策のゲルマン化)が強化されることになった。

5)チェコスロバキア共和国の建設
 19世紀中頃、フランスで発生した二月革命はチェコにも波及し、自由主義運動が高まったが、チェコが東隣のスロバキアと共にハプスブルク家体制から独立したのは、それから70年も経過した第1次世界大戦の末期である。当時、チェコはオーストリアの、スロバキアはハンガリーの支配下にあった。中でも、スロバキアは1000年もの長きに亘り、ハンガリーの一部になっており、住民の間でスロバキア人としての自覚が生まれたのは19世紀に入ってからである。
 20世紀初旬、プラハ大学で哲学の教授を務めていたトマーシュ・マサリクは、言語、文化、慣習等を共通にするチェコとスロバキアが一体となって国家を建設する運動(チェコスロバキア運動)を展開した 。なお、汎スラブ主義を掲げていた帝政ロシアは革命によって崩壊し、1917年11月には共産主義者のレーニンによってソヴィエト政府が建てられているが、チェコスロバキア運動はこれに追随するものではない。
  チェコスロバキアの建国は、1918年1月、米国のウィルソン大統領が提唱した民族自決によって後押しされることになった。オーストリア=ハンガリー帝国の敗戦が濃厚になった10月、チェコスロバキア共和国は独立を宣言し、翌月、国際的承認を得た。初代大統領には独立運動指導者のマサリクが就任し、1935年まで務めると、盟友のエドヴァルド・ベネシュが跡を継いだ。
 1930年代後半、チェコ人とスロバキア人の対立が激しくなった。また、ナチス・ドイツの外圧に晒されるようになる。ドイツやオーストリアとの国境沿いには中世より多くのドイツ人やオーストリア人が居住していたため、ヒトラーがズデーテンラントと呼ばれるこの地域の編入を要求すると、1938年9月、ミュンヘンで英仏独伊の首脳会談が開かれることになった。なお、この会議にチェコスロバキアのベネシュ大統領は招待されていない。ヒトラーの「これが最後の要求である」という言葉を信じた各国首脳はこの地域のドイツ編入を認めたが、独裁者は約束を守らず、領土拡大を続けた。その結果、チェコスロバキアはチェコとスロバキアに解体され、チェコ(ボヘミア地方とモラビア地方)はドイツの保護領となる一方、スロバキアは独立して「スロバキア共和国」となるが、ドイツの傀儡国家として支配された。こうして第1次世界大戦後に建設されたチェコスロバキアは実質的に消滅する。なお、ベネシュはロンドンに亡命し、チェコスロバキア亡命政府を建てた。

ズデーテン地方
上の地図で斜線のついた地域がズデーテン地方(ズデーテンラント)である。
出典:「世界史の窓」

6)第2次世界大戦
 1945年4月、スロバキアはソ連軍によって解放された。翌月にはチェコも解放されるが、ソ連軍はその後もチェコに居座り、影響力を行使し続けた。ただし、直ちに社会主義化(共産主義化)されたわけではなく、議会制民主主義が復活する。

7)チェコスロバキア社会主義共和国の成立
 1945年4月、亡命先のイギリスから帰国したベネシュは共産党と共に国民政府を樹立し、チェコスロバキアが再建された。翌年6月、ベネシュが大統領に再選され、議会制民主主義は軌道に乗る。
 1947年6月、米国がヨーロッパ経済復興計画(マーシャル・プラン)を発表すると、その受け入れをめぐって国内情勢は大混乱に陥る。翌月、ベネシュはマーシャル・プランの受け入れを表明したが、ソ連の介入を受け、撤回を余儀なくされた。翌年2月、反米路線を取る共産党は対立する閣僚を政権内から追い出し、一党独裁を開始するようになり、これを「チェコスロバキアのクーデター」または「二月事件」と呼ぶ。
 同年5月、共産党主導で新憲法が制定され、チェコスロバキア社会主義共和国が発足するが、ベネシュはこれを認めず、辞任した。こうしてチェコは社会主義化され、冷戦期は東側(ソ連圏)の一員となる。
 1960年、憲法が改正され、国号は「チェコスロバキア社会主義共和国」に変更された。
 1963~68年、スターリン体制への抗議運動(1968年のプラハの春)が盛り上がりを見せた。そして、1968年1月、ドプチェク第1書記は独自の社会主義路線を発表したが、ソ連のブレジネフ政権が同年8月、ワルシャワ条約機構軍を投入し、民主化の動きを弾圧したため、改革は実現しなかった(チェコ事件)。
 なお、この事件を機に国体が再検討されることになり、1969年、チェコ社会主義共和国とスロバキア社会主義国からなる連邦制に移行した。これは両者間の格差を是正し、後者に自治を保障するものであったが、実際には中央集権体制が維持され、前者が実権を握った(参照)。

8)チェコ共和国の発足
 1989年、東欧諸国で民主化運動が行われる中、チェコスロバキアでも11月に革命が起き、共産主義体制は崩壊した。なお、この革命は流血を伴わなかったため、柔らかな生地にたとえ「ビロード革命」(Velvet Revolution)と呼ばれている。
 その後、チェコスロバキアはソ連体制からの脱却とEU加盟を目指すようになった。このような状況下、チェコとスロバキアの(経済)格差を背景に、スロバキアでは国体や国政に関する不満が高まる。オーストリア=ハプスブルク家体制下で工業が発展したチェコに対し、スロバキアは伝統的に農業国であり、経済力が弱かった。また、共和国は連邦制の国家であるものの、実権はプラハに握られており、スロバキアはチェコの発展の犠牲になったという考えがスロバキアで増えていく(参照)。「スロバキアは次男ではない」という世論を反映し、1990年6月、超保守的で、ポピュリストのヴラジミール・メチアルが首相に選出された。これに対し、チェコでは改革派のヴァーツラフ・クラウスが首相に就任し、スロバキアを切り捨て、市場経済を導入しようとしたため、メチアルの批判を浴びた。両者の抗争がチェコスロバキアを解体させることになるが、国民はそれを望んでいなかったため、両者は国民投票を実施せず、解体を決定した。なお、スロバキアとの分離は「ビロード離婚」と呼ばれており、旧ユーゴスラビアのような戦争は起きていない。

◎ ハイフン戦争
 1990年、新憲法を制定する際、チェコの議員は「チェコスロバキア連邦共和国」という国号を支持したのに対し、スロバキアの議員は共和国が異なる民族で構成されることを示すため、「チェコ」と「スロバキア」をハイフンで区切り、「チェコ=スロバキア」(Česko-Slovensko)とすべきとした。これを「ハイフン戦争」と呼ぶが、双方とも妥協しなかったため、どちらの表記も正しいものとされた。また、「チェコおよびスロバキア連邦共和国」(Česká a Slovenská)という国号も採用されたが、両者の対立を完全に解消することはできなかった (参照)。

 1999年、チェコは米国を中心とした西側諸国の安全保障体制であるNATOに加盟する。2004年5月には、EU加盟を達成した。スロバキアも同時に加盟しているため、再統合が実現する形になる。両国はともにシェンゲン協定に加盟しているため、国境でパスポート検査は行われず、自由に移動することができる。なお、スロバキアとは異なり、チェコは政府の方針により、ユーロを導入していないため、通貨は統一されていない。



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