ベートーベン


 クラシック音楽の巨匠の一人で、「楽聖」と讃えられているベートベン(van Beethoven)は、1770年12月16日頃、ライン川沿いの小都市ボン(Bonn)で生を受けた。



ボン(Bonn)
 ベートーベンが生まれた当時、ドイツはまだ国家として統一しておらず、多くの諸邦が神聖ローマ帝国(961~1806年)の枠組みの下でまとまっていた。

 ベートーベンの出生地であるボンは、同帝国内のケルン大司教領にあった。大司教は、皇帝を決める選挙で投票権を持っていたため、ケルン選帝侯領(Kurköln)とも呼ばれた。

 なお、ケルン(Köln)も、ボンも、「ヨーロッパの動脈」と呼ばれるライン川のほとりにあり、伝統的にカトリックの影響を強く受けている。また、ともに古代ローマの遺跡が残っている。

 ところで、ドイツ帝国が建設され、ドイツ統一が実現したのは1871年である。その首都はベルリン(Berlin)であったが、第1次世界大戦で敗れ、ドイツ帝国は崩壊した。

 第2次世界大戦でも敗れたドイツは、東西に分裂し、ボンは西ドイツの首都となった。しかし、1990年10月にドイツ統一が実現すると、ドイツの首都はベルリンに戻った。

 西ドイツの首都であった時代においても、ボンは規模が小さかったため、「首都」ではなく、「主村」(Bundeshauptdorf)と揶揄されることがあった。

 現在でも、首都機能の一部が残されているが、ベートーベンの出生地ないし「大学都市」としての性格か強い。

 東西冷戦が終結した1989年、ボンは「2000周年」を祝っている。つまり、古代ローマ人がこの地で生活してから2000年が経過しているが、人類は、14,000年も前からこの地で生活している。
 

ボン大学のキャンパス
© Thomas Wolf, www.foto-tw.de / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0


 ベートーベンの姓は、正式には、ヴァン ベートーベン(van Beethoven)であるが、ヴァン(van)は貴族を表すものではなく、「ベートーベン」という小村の出身者であることを指す。それは現在のベルギー領にあったと考えられている。

 ベートーベンの家族は音楽一家として知られており、祖父はケルン選帝侯の音楽団の楽長、父は宮廷歌手を務めていた。べートーベンより14年早く、モーツァルト(1756~1791年)が同じ神聖ローマ帝国内で生まれているが、この「神童」と同じように、ベートーベンも音楽の英才教育を受けた。

 1787年春、ベートーベンは「音楽の都」であり、「神聖ローマ帝国の首都」でもある、ウィーンを訪れ、モーツァルトの演奏を聴いている。

 1790年12月、「交響曲の父」として知られるハイドンは、イギリスに演奏旅行に行く途中でボンを訪れている。また、2年後にウィーンに戻る際にも、ボンに立ち寄っているが、若きベートーベンは、自ら作品をハイドンに見せている。そして、才能を評価されたベートーベンは、ウィーンに来るように言われている。


 実際に、1792年11月、ベートーベンはウィーンに向けて旅立っているが、翌月、父親が逝去した時も含め、二度とにもボンには戻らなかった。

フランス革命の影響

 1789年7月、パリ市民がフランス絶対王政の象徴であったパスティーユ監獄を襲撃したことを機に、その後、10年にもわたるフランス革命が勃発した(フランス国王のルイ16世は、1793年1月に処刑された)。

 その当時、ベートベンは、まだボンで生活しており、1789年5月にボン大学に入学した。啓蒙思想が普及していた同大学で、ベートーベンは「自由、平等、博愛」というフランス革命の理念に強く感化されることになった。そして、ウィーンに移り住んでから10年が経過した1802年夏、「第3交響曲」の製作にとりかかると、翌年には完成させ、フランス革命の英雄であるナポレオンに献呈した。なお、ナポレオンはベートーベンよりも1歳、年上である。

 しかし、1804年5月、ナポレオンが皇帝に即位し、独裁・専制を開始すると、ベートーベンは「ナポレオンも結局は権力者に過ぎなかったか!」と憤慨し、失望したとされている。

 その後、ナポレオンはベートーベンの新しい故郷であるウィーンを2度にわたり、包囲しており(1805年と1809年)、ベートーベンは、ナポレオン軍の接近を肌で感じながら生活していた。

 そして、彼の唯一のオペラ「フェデリオ」の初演会場は、フランスの兵士で埋め尽くされた(1805年)。

 ウィーンを居城としていた神聖ローマ皇帝(オーストリア皇帝を兼任)は、プロイセンやロシアと同盟関係を結び、ナポレオンに対抗したが、1805年12月、アウステルリッツの戦い(三帝会戦)で敗れた。その後、ナポレオンは、オーストリアやプロイセンに対抗するため、自国に近いドイツ西部諸邦にライン同盟を結成させたため、神聖ローマ帝国は崩壊した(1806年7月)。

 ヨーロッパ支配を目指したナポレオンは、1807年、それまでプロイセンに属していた地域(ボンの北方)にヴェストファーレン王国を設立し、末弟のジェロームを国王に据えた。また、ベートーヴェンを同王国の宮廷楽長として招聘している。ベートーベンはそれを受け入れたが、ヴェストファーレンに行くことはなかった。

文豪ゲーテとの出会い

 1804年5月、ナポレオンがフランス皇帝に即位すると、当時、神聖ローマ帝国の皇帝を務めていたフランツ2世(ハプスブルク家)は、オーストリア皇帝を名乗った。ナポレオンによって神聖ローマ帝国が崩壊させられた後は、オーストリア皇帝としての地位のみを維持し、オーストリアだけではなく、隣接するボヘミアやハンガリーを治めた。

 ボヘミア(現チェコ領)の首都プラハから北西に100kmほど離れたところにテプリツェ(Teplitz)が存在する。この小都市はボヘミア最古の温泉地として知られているが、19世紀には高級な保有地として賑わうようになった。

 難聴を煩っていたベートーベンは、度々、この地を訪れている。その際には、モーツァルトも泊まったホテルに滞在したとされているが、1812年7月には、当時、神聖ローマ帝国内で詩人として活躍していた文豪ゲーテ(Goethe)とも直接、合って話をしたとことを裏付ける両者の手記が残っている(参照)。

 当時、ゲーテは、ザクセン=ヴァイマール=アイゼナハ大公国の大公に仕えており、その命を受け、オーストリア皇后に詩を朗読するために、テプリツェ にやって来ていた。音楽家として名声を得ていたとはいえ、一市民であるベートーベンとの違いは大きく、ベートーベンは、ゲーテの宮廷かぶれした立ち振る舞いを批判している(参照)。

  (参考)テプリツェにおけるベートベン


© Public Domain/Wikipedia
(参考)


ヴァイマール(Weimar)
 ゲーテの生誕地フランクフルト・アム・マインは、ナポレオンが設立し、ベートーベンを宮廷楽団の長に任命したヴェストファーレン王国にある。

 同王国が設立されるよりも30年以上前の1775年11月、ゲーテは、ザクセン=ヴァイマール=アイゼナハ大公国で高位の公職に就くため、大公国の首都ヴァイマールに引っ越している。

 ヴァイマールは、英語式の発音に従い、ワイマールと呼ばれることもあるが、「ワイマール共和国」の名でも知られる小都市である。1871年に設立されたドイツ帝国は50年も存続せず、第1次世界大戦で敗れ、崩壊した。それを継承するドイツ人国家が「ワイマール共和国」と呼ばれるのは、1919年、ワイマールで憲法が採択され、発足したためであるが、1933年、ヒトラーが首相になると崩壊した。


ワイマールの国民劇場の前に建てられたゲーテ(左)とシラーの像
ワイマール憲法はこの劇場で開かれた国民議会(1919年)で採択された。

 ゲーテの時代、ザクセン=ワイマール公カルル・アウグストが文人を厚遇したため、ヴァイマールには、ゲーテだけではなく、シラー、ヘルダー、ウィーラントなどが集まり、ドイツ文学の聖地となった。

 そのシラーが書いた「歓喜に寄せて」(An die Freude )にメロディーを付け、1824年に完成したのがベートベンの「第9交響曲」である。この詩は兄弟愛をテーマにしており(参照)、EU統合の精神にも合致しているため、2009年12月に発効したEU条約(リスボン条約)で「EUの歌(ヨーロッパの歌)」に指定されている。

 なお、フランス革命勃発直後、ドイツの学生は、現フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」(La Marseillaise)のメロディーに、同じシラーの作品である「自由賛歌」(Ode An die Freiheit)を付けて歌っていたが、それをもとにし、シラー自身によって書き改められたのが、前掲の「歓喜に寄せて」である。

(参照)GOTRIP!「世界遺産の町ドイツ・ワイマール、ゲーテが生涯を終えた「ゲーテの家」その人生に触れる 」


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