〔1〕 |
統一とは諸国の制度を同じにすることであるのに対し、調整とは、諸制度の相違を少なくすることである。この違いはEU法を学ぶ上で重要である。
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〔2〕 | 近似の顕著な例としては、ロシア・ウクライナ間の紛争を挙げることができるが、EU統合の必要性は、特に、第1次世界大戦(1914~1918年)と第2次世界大戦(1939~1945年)によって認識されるようになった。欧州統合に関する文献として、see
Thomas Oppermann, Europarecht (Verlag C. H. Beck 1999, 2nd edition), paras.
3-51. なお、ヨーロッパ各国が協調して平和を確立し、これを維持することの必要性を説いた古典として、例えば、Immanuel Kant,“Zum
ewigen Frieden”(1795年)が挙げられる。 |
〔3〕 | 国際舞台におけるヨーロッパの衰退を指摘し、その復興の必要性を説く見解は、第1次世界大戦後に主張されるようになった。なかでも、オーストリアの貴族、クーデンホーフ・カレルギー(Coudenhove-Kalergi)伯は、1922年、第1次世界大戦で荒廃したヨーロッパが再興し、米ソ両大国に対抗しうるようになるためには、ポーランドからポルトガルにわたる諸国家が政治・経済的同盟(汎欧州同盟)を結成することが必要であると訴えた(汎ヨーロッパ運動)。彼の見解は1920年代に多くの賛同者を集めて発展したが、1930年代に入ると国家主義が台頭し、鎮圧された。そして、次第にヨーロッパ各国の協調は弱まり、再び戦争(第2次世界大戦)へと突入することになった。 なお、カレルギーの母親は日本人であり(父親はオーストリア人)、日本の童謡を聴きながら成長したと言われている。彼の祖国、オーストリアは、当時、多国籍国家であり、ヨーロッパ諸国民の共存に理解が深い国であったが、1930年後半以降は、ナチス・ドイツと手を組んで外国人を排斥し、第2次世界大戦を引き起こすことになった。戦争を遂行した責任から、戦後、オーストリアは永世中立国となり、西側にも東側にも属しなかったが(ドイツとの合併という同国の要望は、諸外国の反対にあい実現しなかったという経緯もある)、冷戦終了後の1995年にはEUへ加盟している。クーデンホーフ・カレルギー伯に関して、例えば金丸輝男編「ヨーロッパ統合の政治史」(有斐閣)1996年8頁以下(金丸)を参照されたい。 |