法学部で西洋史を学ぶ皆さんへ

ドイツとは

 ”deutsch” ー これは「ドイツの」「ドイツ人の」「ドイツ的な」や「ドイツ語の」という意味のドイツ語です(形容詞です)。
 「ドイッチ」と発音しますが、日本人の私たちが「ドイツ」と言うと、ドイツ人にはきちんと理解できるはずです。
 
 しかし、「ドイツ」とは何でしょうか? この問題はドイツ人にとって永遠のテーマと言えるかもしれません。特に、2015年8月以降、中東から非常に多くの移民・難民が入ってきて、「ドイツ的なもの」が国内から薄れていく中で、また、生活・習慣や言語等が大きく異なる移民・難民(イスラム教徒)と対面する中で、"Was ist Deutsch?"、つまり、「ドイツ(的なもの)とは何か?」という問題が頻繁に提起されるようになりました。
 
 リストマーク  ドイツのテレビ局WRDのドキュメンタリー

 ここでは、一般に、ドイツ人の性格・気質、国民性、行動、慣習、言語、外見、そして、遺伝子などが検討の対象になります。例えば、「典型的なドイツ人とはどういう人か」「典型的なドイツの習慣とは何か」といった具合です。

 歴史的には、ヨーロッパ大陸の西方でフランク王国が栄えていた時代、東方の外国語、つまり、ドイツ語を話す人々がドイツ人と、また、彼らが居住していた地域がドイツと呼ばれるようになりました。なお、フランク王国では、一般にラテン語が話されていました。

 民族的には、フランク王国の国民も、ドイツ人も共にゲルマン民族です。

 フランク王国はカール大帝の時代に最盛期を迎えますが、大帝はドイツ地方、具体的にはザクセン地方を数度の遠征の後に制圧し、住民、つまり、ドイツ人をキリスト教に改宗させました。

 カール大帝の孫の時代、フランク王国は3つに分裂しますが、その一つである東フランク王国で大帝の子孫が途絶えると(カロリング朝の断絶)、ザクセンから王が輩出されるようになります。これをもって、東フランク王国は「ドイツ」に変容していきます。

 また、東フランク王国の国王オットー1世が教皇から西ローマ皇帝の冠を授けられたことを機に、「神聖ローマ帝国」が生まれますが、この帝国は「ドイツ民族の国」と捉えることができます。なお、当時、ドイツ地方には、前述したザクセンの他に、フランケン、バイエルン等、非常に多くの国・諸邦が存在しました。後に勢力を増すオーストリアやプロイセンも、そのようなドイツ系の国々ですが、これらのドイツ民族の国を束ねていたのが「神聖ローマ帝国」です。ただし、それはあくまでも諸国を束ねる枠組みに過ぎず、ドイツ系の国々が一つに統一したわけではありません。それが実現したのは1871年のことですが、当時、ヨーロッパではフランスのナポレオン3世(1789年に起きたフランス革命の混乱期に皇帝にまで上り詰めたナポレオン1世の甥)が力を伸ばしていましたが、このフランス皇帝に対抗するため、ドイツ系の国々は、プロイセンを中心としてまとまるようになりました。そして、普仏戦争でフランスを破ると、フランスのベルサイユ宮殿で、ドイツ帝国の建国式を挙げました。なお、このドイツ統一過程で、オーストリアは除外されましたが、それは、東方にあったこの国には、東欧民族、つまり非ドイツ民族も居住していたためです。

 なお、神聖ローマ帝国は、ナポレオン1世によって崩壊させられます。そして、同1世は、オーストリアとプロイセンを孤立させるため、自国、つまり、フランスに近いドイツ系諸国に「ライン同盟」を作らせませす。なお、この「ライン」とは「ライン川」を指しますが、ドイツとフランスの領土は、この川で分けるという考えが古くからあります。

 ところで、1871年、プロイセンを中心としてドイツ統一が実現したことはすでに述べた通りですが、そうしてできたドイツ帝国は、第1次世界大戦(1914~1918年)に敗れ、崩壊しました。しかし、1930年代になると、オーストリア出身のヒトラーがドイツに渡って首相となり、母国オーストリアをドイツに併合します。こうしてきできたのが、いわゆる「第3帝国」ですが、第2次世界大戦(1939~1945年)に敗れ、崩壊しました。また、オーストリアはドイツから切り離されるだけではなく、ドイツは東西に分断します。つまり、ドイツは、東西冷戦を象徴する国となりますが、1989年末、冷戦が終わると、1991年10月、東ドイツが西ドイツに吸収される形で、ドイツ統一が実現しました。このように「ドイツ統一」には、幾つかの形態がある点に注意しましょう。


上の図は斎藤善之他編著『新版 各国別世界史』山川出版 2019年58頁より抜粋


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