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オーストリア

 
 オーストリアはヨーロッパ中央部にある連邦制の共和国であるが、首都ウィーンは国のほぼ最東端にあり 、歴史的に東欧諸国との関係が強い。周りはドイツ、スイス、リヒテンシュタイン 、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、イタリアの8ヶ国に囲まれ、海は持たない。なお、公用語であるドイツ語で「海」を意味するSee(英語のsea)は、「湖」の意味も持つ。

ヨーロッパの地図

 ドイツ語の名詞には性別があり、「海」を意味するSeeは女性名詞、「湖」を意味するSeeは男性名詞である。そのため、Seeという綴りは同じであるが、「海」を指す Seeと 「湖」を指す Seeは、厳密には同じ単語ではない。

 なお、海を持たないオーストリアの国民の中には、両者の違いが 明確でない人もいる。

 西暦900年代後半以降、ドイツ人(ないし神聖ローマ帝国 )による東方植民の中心地として発展した。そのため、住民のほとんどはゲルマン民族であり、ドイツ語を公用語とする。

※ オーストリアについては下の動画をご覧ください。


・神聖ローマ帝国の発足について

 1278年、ハプスブルク家(Habsburg)による統治が開始される。同家は積極的な婚姻政策によって領土を拡大し、ヨーロッパ随一の列強(多民族国家)へと国を発展させた。その領土が最大となった16世紀には、ネーデルラント(現オランダ)、チロル 、ハンガリー、ボヘミア等も領有した。 なお、ハプスブルク家は15世紀前半以降、ドイツ皇帝 (神聖ローマ皇帝) 位を世襲した。同家出身のマリア・テレジア(フランス王妃マリー・アントワネットの実母〔1717~1780年〕)の下では近代的な中央集権国家の確立が図られ、プロイセンとドイツ内の覇権を争うようになるまで発展するが(ドイツ2元主義)、ナポレオン1世の干渉を受け、弱体化した。

  その後のドイツ統一過程では、オーストリアを含む「大ドイツ主義」と含めない「小ドイツ主義」が対立するが、後者の盟主であるプロイセンとの間で生じた普墺戦争(1866年)でオーストリアは敗北し、ドイツ国家の建設(ドイツ統一)から閉め出されることになった。そのため、翌67年にはマジャール人と妥協してハンガリー王国の建設を許す一方、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねるオーストリア=ハンガリー帝国を成立させた。

 前述した経緯により、オーストリアは、プロイセンを軸として創設されたドイツ帝国に加わることはできなかったが、ドイツ帝国と同盟(さらに、イタリアを加えた三国同盟)を結び、バルカン半島へ進出した。そして、同半島にあるサラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されたことをきっかけとし、第1次世界戦が勃発した(サラエボ事件)。

  開戦当初、オーストリア=ハンガリー帝国が加盟していた三国同盟は優勢で、ドイツ軍はフランス国内へも兵を進めたが、資源・生産力で劣っていたため、戦争が長期化するにつれ劣勢に回った。それを挽回するため、ドイツ軍が無資源潜水艦作戦を実施すると、自国船籍が犠牲になったことに立腹した米国が大戦に参加し 、三国同盟側と戦うようになった。これによって、ドイツやオーストリアは敗戦色が濃厚となり、1918年11月に相次いで降伏した。 敗戦を機にオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し(なお、ドイツ帝国も同様に崩壊した)、ハンガリーとチェコスロバキアが独立した。また、ポーランド、ルーマニア、ユーゴスラビアに領土を割譲し、国土は戦前の4分の1にまで縮小した。これは現在のオーストリアの領土と同じであるが、そのため、ウィーンは小国にとって大き過ぎる首都と揶揄されることがある。

 なお、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler 1889~1945)はオーストリア出身であるが、隣国ドイツで首相になると、1938年3月、母国オーストリアを併合し、第2次世界大戦に巻き込んだ。

 1945年4月、ウィーンはソ連軍に占領され、翌月、ドイツと共に無条件降伏した。

 戦後は米英仏ソによって分割占領されるが、オーストリアはドイツと共に一つの国を設けることを望んだ。しかし、連合国から却下されたため、独自の道を歩むことになった。その一環として、憲法で中立主義を定め、中立国となった(1955年)。

 なお、東西冷戦終結後の1995年1月、オーストリアは、同じく中立国であった北欧のスウェーデンやフィンランドともにEUに加盟している。


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