(旧スターリン通り)



写真:ベルリン カール・マルクス通り


 ベルリンの中央部にあり、多くの人が足を運ぶ「アレキサンダー広場」(Alexander Platz)

 この広場は東ベルリン地区にありますが、そこからさらに東へ進むと、東ドイツの面影に触れることができます。

 広場に接する「アレキサンダー通り」(Alexanderstr.) は、途中から「カール・マルクス通り」(Karl-Marx-Allee)に変わります。

 この辺りの道幅は120メートにも及ぶため、通りの反対側へ行くには、少々、時間がかかります。片道4~5車線の道路は軍事利用を可能にするだけではなく、東ドイツの威光を世界に示すという目的を持ち合わせていました。



 この界隈は第2次世界大戦末期(1945年)の空爆によって、ほぼ完全に破壊されました。そのため、道路わきの建物は1950年代以降、東ドイツ政府の計画に基づき建てられたものですが、特権階級のための映画館「Kino International」はランドマークの一つになっています(現在でも営業しています)。その向かい、つまり、120メートル先には、「カフェ・モスクワ」(Café Moskau)という社会主義国らしい名前のついた飲食店がありますが、これらの現代的な建物を除けば、有名な建築物はありません。それは東ドイツの財政的行き詰まり(1950年代末~60年代前半)を反映していますが、この通りのさらに東側には、すでに巨額の資金を投じ、「労働者の宮殿」が築かれていたことも一因として挙げられます。





◎ シュトラウスベルガー広場

 この「労働者の宮殿」は「シュトラウスベルガー広場」(Strausberger Platz)より始まります。広場はロータリーになっているため、市民の憩いの場としての役目を果たすわけではありませんが、中央部には噴水が設置されています。また、道路脇には、カール・マルクスの胸像が置かれています。

 建物、換言すれば、8階建ての団地は、ロータリーを囲む形状をとり、4つの塔がシンボルになっています。
 


上の写真:シュトラウスベルガー広場(西側)

下の写真:シュトラウスベルガー広場(東側)








 
 東ドイツ政府が労働規則を厳しくしたことに反発し、1953年7月、大規模なストライキが発生しました。その発端は「宮殿」の建設現場にあったことでも、「シュトラウスベルガー広場」の名は知られています。

 この広場から約2kmに亘り、「労働者の宮殿」つまり高級団地の街道が続きますが、そのほぼ東端には「フランクフルト塔」(Frankfurter Tor)が建てられています(すぐ上の写真でも、小さく写っています)。カール・マルクス通りは、この2つの塔と、前述した「シュトラウスベルガー広場」の4つの塔に挟まれていると言っても良いでしょう。


◎ フランクフルト塔



上の写真:フランクフルト塔(シュトラウスベルガー広場の方面より)

下の写真:フランクフルト塔(シュトラウスベルガー広場の方面へ)






 カール・マルクス通りにある高級団地が「労働者の宮殿」と呼ばれているのは、社会主義を標榜する東ドイツ政府によって労働者の住宅として建設されたためです。前述したように、カール・マルクス通りは第2次世界大戦末期の空襲により瓦礫の山と化しましたが、まさにその瓦礫を使い「宮殿」は建設されました。終戦直後の再建構想によれば、緑あふれた質素な一戸建てないし集合住宅を建てるものとされ、実際に建築作業も開始されましたが、首都ベルリンにふさわしくない、または、「アメリカ的である」ことを理由に破棄されます。世界中に東ドイツの威厳と威光を示すという構想のもとで建築されたのが「労働者の宮殿」です。なお、終戦直後の計画に基づき実際に建築された住宅は現在でも使用されています(写真はこちら)。

 通りはいくつかのブロックに分けられ、異なる建築家によって設計されましたが(複数のブロックを担当したも者もいます)、手本になったのはソ連の建築様式(スターリン様式)でした。また、ドイツやプロイセンの伝統が取り入れられていますが、建築物は陽光に映えるよう、トーンの薄い色彩を用い、調和が保たれています。



 上と下の写真:スターリン様式を取り入れた建物









上の写真:通りの片側の遊歩道(その右側に6車線の車道と歩道があります)


◎ スターリン通り

 ところで、カール・マルクス通りは、1949年12月から1961年11月まで、「スターリン通り」(Stalinallee)と呼ばれていました。これは文字通り、当時のソ連の指導者スターリンにちなんだ名称ですが、「宮殿」への最初の入所式は、スターリンの誕生日である1952年12月に行われました。

 しかし、この独裁者の死後、粛正・迫害(犠牲者の中にはドイツの共産主義者も含まれていました)、政治体制はソ連だけではなく、東ドイツでも批判されるようになり、彼の名前は抹消されるようになりました。そして、1961年11月、通りも「カール・マルクス通り」に改められました。

 「スターリン通り」は、「カール・マルクス通り」の先にある「フランクフルト通り」(Frankfurter Allee)にもまたがっていました。つまり、かつての「スターリン通り」は、現在、「カール・マルクス通り」と「フランクフルト通り」に分かれています。その分岐点にあるのが、前掲の「フランクフルト塔」です。

 1950年中旬までに「スターリン通り」には約3200の住宅(アパート)が築かれました。

下の写真:フランクフルト通りにある「宮殿」









下の写真:大晦日の花火の後


 












下の写真:通りの裏側




 東ドイツは、平等、労働者の解放をスローガンに掲げていましたが、実際は違っていました。「労働者の宮殿」に入居していた者は、国に忠誠を誓う者や貢献者であり、入居者には政権への忠誠や政治活動が義務づけられていました。そのため、退去者には疑いの目がかけられることになりました。

 現在、宮殿は一般住宅として使用されていますが、過去に比べ、住民は多様になりました。数名の学生が共同で生活することもまれではありません。カール・マルクス通りでは、6月に祭りが行われ、80万人が訪れるとされています(祭りのホームページはこちら)。



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