地域研究(欧州)

 欧州統合の歴史

 ヨーロッパ統合の精神は古代ギリシャにおける都市同盟や古代ローマ帝国において生成した。ただし、ここでの「ヨーロッパ」とは局所的であり、全ヨーロッパの統合は中世以降に発展した。諸国・諸侯が対等な立場で参加するタイプの欧州統合構想(和平構想)が生まれるには、さらに長い年月を必要としたが、この統合を通じ、独立・自主権を獲得する国や領主・諸侯もあった。

 以下では古代から今日に至るまでの欧州統合の過程について説明する。

1. ローマ帝国による支配

 伝説によると、紀元前753年、イタリア半島を南下してきた民族によって都市国家ローマが建国された。この国は王によって治められていたため、王政ローマと呼ばれているが、市民によって王が追い出される紀元前509年まで存続し、共和制期に引き継がれる。紀元前27年にはさらに帝政に変わり、ローマ帝国が誕生した。なお、これらの異なる政治体制からなるローマを包括し、古代ローマと呼ぶ。

 帝政期のローマ、すなわち、ローマ帝国はイタリア半島を含む全地中海世界を支配した。また、現在のフランスにあたるガリアを攻略した後は、ライン川を越え、現在のドイツの領土(例えば、ケルンやトリーアなどの都市部)にまで勢力を拡大するが、395年、テオドシウス1世が死去すると東西に分裂した。

 ローマ帝国発祥の地であるイタリア半島は西ローマ帝国の領土となるが、政治の実権はゲルマン民族によって掌握されるようになった。

 東ローマ帝国はバルカン半島や小アジアを領土としたが、古代ギリシャの植民市ビサンチオン(現在はトルコのイスタンブール)に首都が置かれたため、ビザンチン帝国とも呼ばれている。476年に西ローマ帝国が滅亡すると、ローマ帝国の承継国としての意義が増すが、1453年、オスマン・トルコのメフメット2世によって滅ぼされた。

 当初、キリスト教はローマ帝国によって厳しく弾圧されるが、帝国内で広く信仰され、4世紀には公認されるようになった。その後、キリスト教はローマ市を中心として発展し、ヨーロッパ中に広まった。

  なお、古代ローマでは、王政期より法、特に私法が発展し、ビザンチン帝国の皇帝ユスチニアヌス1世(在位527~565年)の治政下では「ローマ法大全」が編纂された。ローマで発展した法、すなわち、ローマ法はキリスト教とともに全ヨーロッパで広まり、多くのヨーロッパ諸国の法に影響を及ぼした。

 後世、ドイツの法学者イェーリング(1818~1892年)は、帝政、宗教、法と、ローマは3度、世界を制したと評している。



2. フランク王国による欧州統合
 「ヨーロッパの父」としてのカール大帝

 5世紀後半、ゲルマン系のフランク族は他のゲルマン系民族を統括し、ライン川北部にフランク王国を興した。その後、同国は西ローマ帝国の弱体化に乗じて勢力を拡大し、カール大帝(在位768~814年)の時代には、ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの6ヶ国、つまり、設立当初のEC に重なる広い範囲を支配する。

 これによってキリスト教の布教範囲も拡大することになった。特に、カール大帝は度重なる遠征の後に現ドイツ北部のザクセン地方を制圧し、その地に住むゲルマン人をキリスト教に改宗させた。また、イタリアにあったランゴバルド王国(注1)を滅ぼして教皇ハドリアヌス1世(在位772~795年)を保護するだけではなく、教会内の対立者から逃れてきた教皇レオ3世(在位795~811年)を救った。レオ3世は800年、クリスマスのミサに参列するためローマを訪れたカール大帝に西ローマ皇帝の冠(注2)を授けている(カール大帝の戴冠)。

 ヨーロッパにおける多くの民族を統括しただけではなく、キリスト教を普及させた功績を称え、後世、カール大帝は「ヨーロッパの父」または「最初のヨーロッパ人」と呼ばれるようになった。なお、パリに置かれていたフランク王国の首都は、カール大帝によって、アーヘン(ドイツ)に移されているが、これらにちなみ、1950年以降、「国際アーヘン・カール賞」という名誉賞が欧州統合に貢献した人物に与えられている。

 カール大帝は当時の平均寿命の2倍に相当する72歳まで生きながらえ、814年に死亡したが、孫の時代にフランク王国は東・中・西に3分割され、実質的に消滅した。新たに発足した東フランク王国、中フランク王国、西フランク王国の概要は以下の通りである。

  • 東フランク王国はゲルマニア地方(現在のドイツやオーストリア)を領土とした。918年にフランク族間の王位継承が途絶えると、単に「王国」、11世紀以降は「ドイツ王国」と呼ばれるようになった。また、962年、国王のオットー1世が教皇ヨハネス12世よりローマ皇帝の冠を授けられたことを踏まえ、後世の者は神聖ローマ帝国とも呼んだが(詳しくは後述4参照)、同帝国の発足をより早い時期、つまり、800年のカール大帝の戴冠時に求める立場もある。
  • 中フランク王国の領土は現在のイタリアやオランダ、フランス西部などにまたがっていた。南北に細長い領土ゆえに統治は難しく、後にイタリアに集約される。
  • 西フランク王国は旧ローマ帝国西部の属州ガリアを領土とするが、後にフランス王国、現在はフランスの領土となっている。

  • イタリアにあったランゴバルド王国もゲルマン系の国であり、カール大帝は同国の王女と結婚するが、同国より脅かされていた教皇ハドリアヌス1世を救うために離婚し、ランゴバルド王国を滅ぼしている(774年)。
  • この冠は、キリストを十字架にはりつけるために使用された鉄の釘を叩き伸ばして作られたとされる。そのため、「鉄王冠」ないし「ロンバルディアの鉄王冠」とも呼ばれているが、「ロンバルディア」とはイタリア北西部にある地域の名称で、現ロンバルディア州(州都はミラノ)の語源にもなっている。ラテン語では「ランゴバルド」と呼ばれ、この地にあったランゴバルド王国の歴代王はこの冠をかぶっていた。この王国を滅ぼしたカール大帝は、元義理の父親であるデジリウスよりこの冠を奪い、自らをランゴバルド王と呼んだが、本文中で述べたように、800年には、教皇レオ3世よりこの王冠を授けられ、西ローマ皇帝となった。



3.ボヘミア王イジー・ス・ポジェブラト(Jiří z Poděbrad、ドイツ語ではGeorg von Podiebrad )の和平構想

 1419年、カトリック教とプロテスタント教の先駆けであるフス派の間で宗教戦争(フス戦争)が勃発したが、翌20年、フス派発祥の地ボヘミア(現チェコの中・西部)でイジー・ス・ポジェラントは生まれた。彼はフス派の貴族の一人に過ぎなかったが、ボヘミア王ラディスラウスが若くして死亡すると、1458年、議会によってボヘミア王に選出された。当初、教皇はイジー・ス・ポジェラントを異端者とみなし批判したが、トルコの侵略からヨーロッパを防衛することを期待し、王位を承認するようになった。

1462年、イジー・ス・ポジェラントは21ヶ条からなる連合構想を打ち立て、全ヨーロッパ諸国の代表が参加する常設議会の設置や、トルコに対抗するための軍隊の設立などを提唱した。しかし、諸国が対等な形で参加するこの欧州統合プランは、当時としては非常に革新的であったため、自らの優位を主張する中世の絶対君主や教皇の支持を得るには至らなかった。次代の教皇はイジー・ス・ポジェラントを見限り、廃位を言い渡すとともに、新しい十字軍の編成を計画した。

 (参照) Radio Praha 
 

なお、1718世紀、フランスやイギリスでは、以下の者によってヨーロッパ統合案が提唱されるが、いずれも大きな影響力を持つには至らなかった。これらの統合案では特定の国ないし領主、例えば、スペインにおけるハプスブルク家(14921648年、1659年)、フランスにおけるブルボン朝やナポレオン1世(16481815年)が重視されており、すべての参加国・領土が対等に扱われているわけではなかった。

  • Sully, Minister Heinrich IV. von Frankreich, „Grand dessein“, 1617
  • William Penn, A Essay towards the Present and Future Peace of Europe, 1693
  • John Bellers, Some Reasons for a European State, 1710
  • Rousseau, Projet pour la Paix Perpetuelle, 1760
  • Bentham, Plan for a Universal und Perpetual Peace, 1843



4. 婚姻政策を通じた欧州統合とヴェストファーレン条約体制

 「ヨーロッパの父」とも呼ばれる カール大帝 の死後、フランク王国は東・中・西に分割される(参照)。そのうちの一つである東フランク王国は、962年、国王オットー1世が教皇によってローマ皇帝の冠を授けられたのをきっかけに(または、それより160年も早い、800年のカール大帝の戴冠をきっかけに)、神聖ローマ帝国と目されるようになった。

 なお、「神聖ローマ帝国」という国号が正式に使用されるようになったのは、ヴィルヘルム・フォン・ホラント王の在位中、厳密には、1254年である。当時、東フランク王国はドイツ王国と呼ばれるようになっていた。彼は同王国の王に選出されたが、教皇よりローマ皇帝としての冠を授けられているわけではない。

 彼の死後、次の王に選ばれたのは、ハプスブルク家出身のルドルフ1世であった(在位1273~1291年)。当時、ハプスブルク家は、現スイス領内で発祥したドイツ系の貴族に過ぎなかったが、彼が王位に就くことで富と名声を得た。また、現オーストリアの領土を獲得し、ハプスブルク家の拠点をウィーンに移した。しかし、王位が直接、子孫に承継されることはなかったため(ルドルフ1世の死後、ドイツ王国ないし神聖ローマ帝国では、次代の王・君主は異なる家門より選出されることが続いた)、ハプスブルク家の影響力は低下するが、ルドルフ1世の死後から約150年が経った1438年、同家出身のアルブレヒト2世が王に選出されてからは王位を独占するようになった(従来通り、国王選出選挙は行われたが、次の王もハプスブルク家より選出されるようになった)。

 アルブレヒト2世の後を継いだフリードリヒ3世は、1452年、教皇よりローマ皇帝の冠を授かったが、次代のマキシミリアン1世は教皇による戴冠を経ずに即位した(1508年)。マキシミリアン1世は、ブルゴーニュ公国の後継者と結婚することにより、ブルゴーニュ領ネーデルラント(現ベネルクス3国)を獲得した。また、自らの子供2名(王子と王女)を当時、イベリア半島やナポリ、シチリアを支配していた王家(カスティーラ=アラゴン王家)の子供2名とそれぞれ結婚させ、イベリア半島やナポリ、シチリアを獲得した。1516年、孫にあたるカール5世(スペインではカルロス1世と呼ばれた)はスペイン王となり、スペイン・ハプスブルク朝の祖となった。カール5世は、1519年、ドイツ国王に選出された。また、1530年には神聖ローマ皇帝として即位したが、教皇より冠を授けられ即位した皇帝は彼が最後であった。

  このように婚姻を通し、ハプスブルク家は領土を拡大し、ヨーロッパ随一の名家に発展するが、隣接するフランスとの間で覇権争いが激化した。そして、カトリックを信奉するハプスブルク家領内でプロテスタントの勢力が強まり、宗教戦争に発展すると、プロテスタント側を支援するフランスの介入を受けた。

 なお、フランスもカトリック派であるが、プロテスタント派について参戦したのは、ハプスブルク家(神聖ローマ帝国)ないしドイツ・スペイン体制の弱体化をもくろんだためである。1618年から1648年まで続いた一連の戦いは30年戦争と呼ばれているが、和平会議は1644年に開始されている。つまり、会議中にも戦争は部分的に継続し、ドイツのヴェストファーレン地方で講和条約が制定され、ようやく戦争が終わるのは4年後である。締結地にちなみヴェストファーレン条約(ラテン語読みではウェストファリア条約)と呼ばれるこの多国間条約は、近代国際法の祖として捉えられているが、これに基づき新しいヨーロッパの秩序が形成されることになった。詳細には、フランスは神聖ローマ帝国よりアルザス・ロレーヌ地方を獲得した。また、スイスとネーデルラント(現オランダ)が同帝国より正式に独立した。帝国内では250以上の地域(領邦・諸侯)に主権が与えられるだけではなく、信仰の自由も保障されるようになったのに対し、それを統率する皇帝の権限は弱められた。なお、その後も皇帝はハプスブルク家から選出され続ける。しかし、1805年には、フランス皇帝のナポレオンによって首都ウィーンを占領され、翌年、バイエルンを始めとする領邦が神聖ローマ帝国からの脱退を宣言すると、皇帝フランス2世は退位と同帝国の解散を宣言した。その後もハプスブルク家はオーストリア皇帝、ハンガリー王、オーストリア・ハンガリー帝国皇帝として在位し、第1次世界大戦で敗れて帝国が崩壊するまで、オーストリアやハンガリーを治めた。  



5.ナポレオン戦争とウィーン体制

 前述したフランスの絶対王政は18世紀後半に幕を下ろすことになった。つまり、1789年、フランス革命が起き、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは処刑された。なお、王妃はかつて敵対関係にあったハプスブルク家出身である。

  フランス革命後、フランスは、革命に反対するヨーロッパ諸国と交戦する(フランス革命戦争、1792年4月~1802年3月)。その頃、軍人であったナポレオンは頭角を現し、1804年、フランス皇帝に即位した。

  1805年、ナポレオンはウィーンを包囲し、神聖ローマ帝国を崩壊に導いた。同帝国内のドイツ諸侯はナポレオンと同盟関係を結び、ナポレオンの主導下でライン同盟(ライン連邦とも呼ばれる)を立ち上げた。

 その後もナポレオンはヨーロッパ各地に侵攻し、ヨーロッパの大半を支配下に置くが、支配された諸国では民族主義、つまり、ナポレオン体制からの解放運動が高まった。一連の戦争は解放戦争(1813~1815年)と呼ばれているが、ナポレオンはこれに敗れ、1814年に退位する。

  1814年9月、戦争終結後のヨーロッパについて協議するため、ウィーンで国際会議が開催された(ウィーン会議)。ヨーロッパの15名の王、200名の大公、126名の外交官が参加したとされるが、終始、お祭り気分で討議は進展しなかったため、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されている。しかし、1815年3月、ナポレオンが復活したとの知らせを受け(👉「ナポレオンの100日天下」)、出席者は危機感を抱くようになり、特に以下の点を決め、6月に会議を終えた。

  • 流動的であったフランスの北側国境を画定するため、旧オーストリア領ネーデルラントとネーデルラント連邦共和国を合併し、ネーデルラント王国(現オランダ)を創設する。
  • 前述したライン同盟を解消し、旧神聖ローマ帝国内における35の領邦国家と4つの自由都市でドイツ連邦を結成する。
 なお、ウィーン会議の決議に従い、ライン川船舶航行中央委員会(Zentralkommission für die Rheinschifffahrt/Central Commission for Navigation on the Rhine)が設けられ、1816年8月、最初の会合が開かれている。同委員会は、現在でも活動する世界最古の国際機関とされている。

 また、ロシア皇帝の主導により、オーストリア皇帝、プロイセン王、ローマ教皇、オスマントルコ皇帝等の間で神聖同盟が設けられた。これはキリスト教の精神に則った拘束力のない君主連携であり、具体的な政策を持つ組織ではなかった。

 さらに、イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアの間では4国同盟という軍事同盟も設立されたが、後にフランスも加わり、5国同盟となった。

 当時の各国君主はフランス革命前の絶対主義の復興を希求し、自由主義やナショナリズム運動を抑制した。その一方で、外交によって均衡を保ち、大きな戦争を起こすことなく、約40年に及ぶ和平をヨーロッパにもたらした(ウィーン体制)。

  • ※ ウィーン会議の決議に基づき、ライン川船舶航行中央委員会が設置されたのを始めとし(前述参照)、19世紀には国際機関が設立されている。
  • 例: 国際電気通信連合(1865年)
  •   万国郵便連合(1874年)
  •   列国議会同盟(1889年)

 1850年頃より、クリミア半島への領土拡大を狙うロシアと、トルコ、イギリス、フランス(ナポレオン3世統治下のフランス帝国)からなる連合国の間でクリミア戦争(1853~1856年の露土戦争とも呼ぶ)が起き、ウィーン体制は崩壊する。

  この戦争でロシアは敗北した。パリで開催された講和会議では、クリミア半島や同じく戦争の舞台となったバルカン半島の統治を戦争前の状態に戻すことが決定された。なお、会議では、連合国側に立って戦ったサルデーニャ王国(北イタリア地方にあった王国)よりイタリア統一に関する問題が提起された。ドイツでも統一に向けた動きが加速し、イタリアは1870年、ドイツは1871年に統一を実現した。これはウィーン体制下の均衡を崩壊させることになった。



6.第1次世界大戦とヴェルサイユ体制

  前述したように、ヨーロッパ大陸の南東部にあるバルカン半島は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の領土となるが、同帝国は1493年、オスマントルコによって滅ぼされた。こうしてバルカン半島はオスマントルコの支配下に入るが、1878年、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立が認められた。他方、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア(厳密には、オーストリア・ハンガリー帝国)の統治下に置かれることになったが、1908年、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。セルビアやモンテネグロはこれに反発し、戦争が危ぶまれる状態に陥った(ボスニア危機)。

  このように緊迫した状況が続く中、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボを訪問中のオーストリア皇太子夫妻が街頭で暗殺される(1914年6月のサラエボ事件)。セルビアの陰謀と考えたオーストリアはセルビアに対して宣戦を布告した。これに同盟国であるドイツや、オスマントルコ、ブルガリアが加担し、3国協商を結んでいたイギリス、フランス、ロシアと交戦するようになり、かつてない規模の大戦に発展した。

  ※ 3国同盟(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア)
    3国協商(フランス、イギリス、ロシア)

 なお、モンロー主義を掲げる米国は当初、干渉しなかったが、多数の米国民が乗っていたルシタニア号がドイツの潜水艦攻撃を受けて沈没したこと、また、ドイツが無差別潜水艦攻撃を大西洋にまで拡大したことを受け、連合国側に立ち、参戦した。これはヨーロッパ外の列強がヨーロッパ情勢に大きな影響を及ぼした最初の例となった。

 第1次世界大戦は1918年11月、同盟国の敗北で終わった。同時に、次に示すように、ヨーロッパ帝国主義も終焉を迎えた。

  • ドイツでは皇帝が退位し、帝政が終了した(→ワイマール共和制の発足) 。
  • オーストリア=ハンガリー帝国も解体されるとともに、オーストリアでは長年にわたるハプスブルク家体制が幕を下ろした。
  • オスマントルコは1924年まで存続するが、敗戦をもって事実上解体した。
  • 他方、戦勝国であるロシアでは大戦中の1917年に革命が起き、帝政は崩壊した(→社会主義国の建設)。

 他方、民族自決の原則のもと、チェコ・スロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビアなど、約20の国が独立した。中東欧におけるこれらの国の独立は、ドイツの勢力を弱めるとともに、ソ連に対する緩衝材または防衛線としての意義も持っていた。これに対し、戦勝国の支配下にあった地域や植民地の独立は認められなかった。

 なお、前述した民族自決の原則は、米国大統領のウッドロー・ウィルソン(Woodrow Wilson)が1918年1月に提唱した「14ヶ条の平和原則」の中で示されている(その第5条が民族自決について定めている)。彼は、翌年1月~6月、パリで開催された講和会議で主導的な役割を果たした。

  パリ講和会議の成果として主要5条約が締結された。例えば、敗戦国ドイツとの間ではヴェルサイユ条約が、また、同じく敗戦国であるオーストリアとの間ではサンジェルマン条約が締結された。ヴェルサイユ条約に基づき、ドイツは膨大な額の賠償金を40年以上にわたり支払うことになったが、その未払いを理由に、フランスとベルギーが1923年1月、ドイツのルール地方を占領すると(ルール占領)、ドイツは官民が一体となり、工場の生産を停止することで抵抗した。この占領は、米国が提示した案(起草した委員会の長の名をとり「ドーズ案」と呼ばれる)に従いドイツの賠償責任が改められるまで続くが(1924年10月)、ドーズ案に基づきドイツの賠償責任は軽減され、当事国間の関係は改善された。そして、1925年10月、スイス・ロカルノで条約が締結され(ロカルノ条約)、ドイツ、フランス、ベルギーの相互不可侵が確認された。また、翌年、ドイツは国際連盟に加盟し、国際社会へ復帰した。この年、独仏の和平構築に貢献したフランスのブリアン外相とドイツのシュトレーゼマン外相にはノーベル平和賞が与えられている。

 1928年、ブリアンは米国のケロッグ国務長官(外相に相当)とともに不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約とも呼ばれる)を起草し、戦争は違法であることを明文化した。また、1929年には「ヨーロッパ連邦」の創設を提唱し、ヨーロッパという地理的一体性を持つ諸国は経済統合を実施する必要性を説いたが、同年に発生した大恐慌(世界恐慌)は各国の経済に大きな打撃を与え、欧州統合の芽は摘み取られた。高い失業率と高い物価上昇(インフレ)に悩まされたドイツではヒトラーが支持基盤を拡大し、1933年には首相に就任するまでに至った。

 なお、フランスはドイツとの国境沿いにあり、石炭・鉄鋼業が盛んなザールラントを支配下に置いた。

  第1次世界大戦後のヴェルサイユ体制下において、帝国主義時代の君主同盟は破棄された。また、ナポレオン戦争後のウィーン体制とは異なり、戦勝国(連合国)は国際連盟という現代的な国際組織を創設し、集団安全保障体制を構築しようとしたが、提唱国であり、世界最大の影響力を持っていた米国が参加しなかったため、実効的に機能しなかった。なお、国際連盟は戦勝国と敗戦国の和解よりも、後者を押さえつける性質を持っていた。


欧州統合の歴史②に続く


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